最近、まったく更新してなかった〜
ということで、大河ドラマ「功名が辻」でも放送された「本能寺の変」について語ってみたいと思います。
まず、通説の「本能寺の変」
1580年6月2日(旧暦)深夜に1万5千人の兵力で丹波亀山城を出陣した明智光秀は、軍を
中国方面ではなく
京都に向けた。
同日早暁、主君織田信長宿舎にしていた本能寺を襲撃。
信長は明智の旗(桔梗紋)を見ると「是非に及ばず」と言って本堂の奥へ入り火を掛け自害した。
その後、明智軍は長男で世継ぎの織田信忠が宿舎にしている二条御殿を襲撃。
信忠も自害して果てた。
謀反は成功したかに見えたが、肝心の信長親子の首を取ることはおろか遺体すら見つけることが出来なかった。
11日後、光秀は山崎にて大返しした羽柴秀吉軍に敗北、山中で農民に殺されたといわれている。
続いて
ドラマ。突っ込みどころ満載。(
突っ込みどころ)
1580年6月2日(旧暦)深夜に1万5千人の兵力で丹波亀山城を出陣した明智光秀は、
「敵は本能寺にあり!」「狙うは信長の首ただ一つのみ!」と言って軍を中国方面ではなく京都に向けた。
同日早暁、主君織田信長宿舎にしていた本能寺を襲撃。
信長は明智の旗(桔梗紋)を見ると「是非に及ばず」と言って
銃を取り奮戦するも力及ばず本堂の奥へ入った。
表では甲冑を着込んだ兵士が信長を守ろうと奮戦している中、濃姫もともに戦っていたが明知軍の銃弾を浴び戦死。信長は
「敦盛」を舞うと炎の中で自害した。
これが多くのドラマでの脚色なんですが、突っ込みどころ満載ですね。
突っ込みの1。
「敵は本能寺にあり」「狙うは信長の首ただ一つ!」
こんなん高らかと宣言したら、謀反バレバレやん。
兵士の中で寝返るやつらも出てくるし、密告する連中もいるでしょう。
この手の軍事行動は情報が漏れるのを防止しないと失敗するので、これはなかったと思います。(後述しますが、記録が残ってます。)
突っ込みの2。
銃を取る暇はありません(笑)
記録によると明智軍到着から4〜5分で本堂近くまで襲撃しているので、火縄銃の準備など到底間に合いません。
火薬入れて弾入れて、火薬を押し固めて引き金をあけて・・・。
準備できまへん。
突っ込みの3。
濃姫をはじめ、信長の奥方さんたちは全員安土城にいました。
突っ込みの4。
敦盛を舞うシーンがよく出てくるのですが、舞ってる暇はありません。
そんなことやってたら踏み込んでくる敵に首取られてしまいます。
本能寺は京都の寺院の中でも小さい部類だったので、あっという間に駆け込めるでしょう。
それでは資料に基づく最新の「本能寺の変」+MASAの考え
1580年6月1日(旧暦)愛宕山に行っていた明智光秀が丹波亀山城へ帰城。(ただし、大雨で帰城できなかったのではないかと言われてます。)
6月2日深夜、明智軍1万5千人全軍に出陣の指令。
「甲冑を着けて行軍せよ」との触れが出たと記録されています。
兵士A「中国方面へ加勢に行くのに今から甲冑付けろなんてどうなってるんだ?」
兵士B「何でも上様(信長)の命令で京に滞在中の家康様を討つって話だぜ。」(本城惣右衛門覚書より)
明智軍は部隊を3つに分けて、先発を斉藤内蔵助(利三)が指揮していたのではないかといわれています。明智本隊は最後に出発、ついたときは戦闘は終わっていたとも言われています。そもそも1万5千人で
京都市中で戦闘なんて狭くて出来ないと思います。
明智軍本能寺到着。夜明けで明るくなっていた。(現在の午前6時頃と推定)
記録によると
本能寺周辺は誰もおらず、静かな夜明けだった。
斉藤内蔵助の子息が騎馬数人と寺の北のほうへ向かった。
兵士たちはすぐ近くの門へ行き、門番を殺害した。
門扉は鍵がかかっておらず、押したら開いた。(以上、本城惣右衛門覚書)
本能寺周辺はかなり無防備で、しかも閑散としていたようです。
信長近習も、町民も気づいていないようなので、先発隊は少人数だったと私は思います。
そして、いよいよ襲撃です。
門(恐らく南門)を開けた兵士(本城惣右衛門)は、「境内はねずみ一匹もいないくらい静か」で、「一番近くの建物に2〜3人で踏み込んだ」と証言しています。
この時、奥から女中が逃げてきたので捕らえたら「上様は白い
着物をお召しです」と話したそうです。
この上様を兵士たちは「家康だと思っていた」そうで、女を斉藤内蔵助へ引き渡した後「家康の首」を目指し、近習たちとの本格的な戦闘に入りました。
そのとき信長は「手水鉢で顔を洗っていた」ら森乱丸が駆け込んできたので、信長は「城介(長男信忠)か?」とたずねたら「惟藤日向守(明智光秀のこと)ご謀反」と報告、信長は「是非に及ばず」と言って奥へ入った。(信長公記)
門が開いてココまでおよそ5〜10分くらいではないかと。
「本格的な戦闘に突入したころ、外では喧嘩と思って屋敷を飛び出したら野次馬が集まり始めていた。」」(村井貞勝・京都所司代)
「早朝ミサの準備をしていたら、外が騒がしくなった。程なく銃声や歓声が聞こえてきた。ミサに集まってきた信者に聞いたら本能寺で反乱が起こったといっていた。本能寺の方角に火の手が上がるのが見えた」(本能寺からすぐ近くの南蛮寺の宣教師)
本格的な戦闘に突入してから5分くらい(本能寺突入から15分くらいか?)で本堂に火の手が上がったものと思われます。
この時信長は「誰にも自分の首を渡すな」といい、本能寺に火を掛け自害したことになっていますが、実際はどうだったのでしょうか?
「自分の首を渡すな」といって自害した戦国武将は、ほとんどが部下に持ち去らせて隠させています。
「首を渡すな」と言った信長が、自分の死体の始末を燃える本能寺の炎に任せるでしょうか?
6月1日愛宕山では大雨だったという記録があり(山科日記)さらに、火災対策を十分に練って立てられた建物がそう簡単に焼け落ちるでしょうか?
「変を聞き、本能寺に駆けつけたところ裏手の墓場の藪の中で遺体を火葬している兵士たちがいたので、ここは愚僧らに任せて、といって遺体を引き取った」(阿弥陀寺由緒之記録)
とあるところから、信長は本堂に火を掛けた後、見つけられにくいところで自害したのではないかと推測しています。
「則時ニ前右府打死」(言経卿記)と記録されているところから本能寺鎮圧にかかった時間は30分程度だったと考えています。
とある建築士さんに聞いたところ、お寺の本堂に火がかかって燃え広がるまでに30分くらいはかかると言ってました。
それを考えると、信長は本堂に火を掛けたが、あくまでも”ヒッカケ”で、実際は阿弥陀寺由緒之記録にあるように見つかりにくい場所で自害したのではないかと思います。
その後、天下人になった秀吉が信長の遺体を引き渡せと阿弥陀寺へ何度も使者を送っているので、遺体は阿弥陀寺にあるのではないでしょうか。
本能寺の変には黒幕論争というのがあり、のちの天下人、豊臣秀吉も名前が挙がってます。
僕は秀吉は直接手を出してはいないと思いますが、光秀謀反についてはある程度知ってて黙殺してたのではないでしょうか?
知ってたからこそ、中国大返しが出来、光秀と姻戚関係にあった有力大名を味方に付け、戦後処理ではいち早く嫡孫(長男信忠の嫡子)を担ぐことが出来たのではないでしょうか。
また、秀吉に反逆して自害させられた信長の三男信孝は、次のような辞世を残しています。
昔より
主を内海の野間なれば
報いを待てや羽柴筑前
昔(ずっと以前)からの主君を討った(内海の)野間(知多郡野間)なのだから、いずれ報いをうけることになるだろう、羽柴筑前守秀吉さんよ
野間は源義朝が部下に裏切られて暗殺され、織田信孝が昔の家来だった秀吉に自害をさせられる。ということを表しています。
僕はこれに、信長暗殺の意味も含まれているのではないかと思います。
秀吉は天下人になりましたが、その最期はとても哀れで、うわごとで次のようなことを言ったとされています。
「御館様、ごめんなされてくだされ」
主君信長に対してやましいことがあったのでしょうか?
なにやら引っかかるものがあります。
明智光秀の謀反の動機はいまだになぞのままです。
現在、本能寺跡が発掘調査中なので、調査結果がが待たれるところです。